2015年12月5日土曜日

2015 劇団通信12月号

腹を立てる。日常誰でも体験していることです。

いや、中には腹なんか立てたことがないという人もいるかもしれませんが、そのような人は対象外です。言葉の上でなぜ「怒る」ことが「腹を立てる」ということになるのか、あまり深く考えたことはありませんが、腹を立てることがあまりにも多い自分の性格を考えると何とか穏便に収められないのかといつも反省しています。

しかし相手の言動によって引き起こされた苛立はなかなか解消出来ないもので、自分の方は何も悪くないのにと思うと余計に腹が立ってしまう情けない性格で、それをどうしたら克服できるのか、心を大きく持てばいい、気にしないでいい、忘れてしまえばいい、いろいろ言い聞かせてはいても思うようにはいきません。

自分の尺度で他人を計るから腹が立つのであって、人は自分とは違うのだと思えば立腹の度合いも薄められる筈です。しかし人から自分の非をあからさまに批難されたとしたら誰もが傷つき表向き気にしないような顔をしていたとしても腹の中は煮えくりかえっているに違いありません。

例え本当に自分に非があったとしても頭ごなし怒られたりしたら素直に反省する気持になどなれません。どんな場合でも心の中に潜んでいる思いは自分以外の者には絶対に分からないものです。

本当に反省しているのか、すねているのか、或は復讐心に燃えているのか、推測でしか判断出来ません。しかし本心がどうあろうとそれを表に出さず、程々に妥協したり我慢したり、お世辞を言ったりして上辺だけの人間関係でも保たれているとしたら、それが大人社会の付き合い方ということになるかもしれません。




2015年11月3日火曜日

2015 劇団通信11月号

人との出会いは実に不思議なものです。ある人に出会ったのがきっかけで人生が大きく転換したり、さりげない形で出会った人といつの間にか切っても切れない長い付き合いになっていたりすることが儘あります。

「類は友を呼ぶ」或は「類は類をもって集まる」と言われていますが、どんな人と巡り会えるか、自分の生き方考え方によって形成された人格に対していろいろな人が集まってくるものです。しかしそれは必ずしも自分と同類と思う人だけではなく、真逆で自分の人生を妨害するために現れたのではないか思うような人、グループにしても組織にしても何故このような人が存在するのか、その人さえいなければ毎日がもっと楽しく憂鬱にならずに済むのにと思うような「困った存在」の人、誰の周りにも大なり小なりいるものです。

そこから逃げるために例え環境を変えたとしても、又同じような人が現れることになります。それは自分もその人と同類であって自分では思ってもいなかったような嫌な面が相手を通して鏡のように写されているかもしれないと考えることもできます。その人が自分の魂を向上させるために存在していると思えば、むしろ相手に対して感謝の気持が湧いてくるのではないでしょうか。

と、尤もらしいことを言っていますが、かく言う私もこれまで同類とは思えないような出会いが沢山あり、煩わされ、困惑し、反省し、苦しみ、気持を切り替えるという人間関係の難しさを実感しながら、今でも修行僧のような日々を送っています。
しかし長い人生を振り返ってみると、それらの人達によって鍛えられたために他人を「許す」ということが少し出来るようになってきました。









2015年9月30日水曜日

2015 劇団通信10月号

新潮文庫の「恋愛偏愛美術館」(西岡文彦著)を読んでいます。名画に秘められた芸術家の様々なドラマが描かれており、ピカソ、モディリアーニ、ドガ、マネとモネ、ルノワール、ムンクなど改めて作品をじっくり鑑賞してみたくなるほどです。

巻頭に「美の本質は恋愛にあるという。鳥の羽根が美しいのは異性を魅惑するためであり、花が美しいのも蝶を惹きつけ花粉を運んでもらうためである。美しくあること、それは生命が受け継がれていくために欠かすことの出来ないエネルギーの結晶にほかならない」と英国ヴィクトリア王室博物館館長マーク・ジョーンズの言葉を引用し、人は生きていくためには美を求めないわけにはいかない。人が何かを美しいと思うのは、その美しいと思われるもののなかに、自分自身が願ってやまないもの、求めてやまないものが結晶しているからなのである。と解説しています。

この本の最初に登場するピカソは天才であるだけに名声とは裏腹な非人間的なおぞましさがあり、だからあのような絵が描けるのかと納得してしまいます。ピカソほど名声と経済的な成功に恵まれた画家は存在しませんが、ミケランジェロやレオナルド・ダヴィンチはその業績から得た報酬は二束三文だというし、レンブラントに至っては破産した後、孤独な晩年を過ごし、ゴッホは数千点の作品を描きながら生前に売れた絵はわずか1枚だけという不遇の中で自殺を遂げています。芸術家の妥協しない生きざまから生まれる作品ひとつひとつに底知れぬドラマが潜んでいて、それが私たちに感動を与えていることを考えると、偉大な芸術家の足跡を辿ることによって自らの甘い姿勢が浮き彫りになり、厳しく叱咤されているようで、この書に感謝せずにはいられない気持ちになっています。









2015年9月16日水曜日

2015 劇団通信9月号

いくつになっても勉強しなければならないことが尽きません。
尽きないどころか益々旺盛になり制限時間が迫りつつある中で焦りのようなものが日々募っていきます。一人の人間が一生のうちに学べるのはたかが知れています。自分が歩んで来た芝居の道ですら尽きることのない未知の領域が限りなく広がっていくように思え、いわんやジャンルの違う世界に至っては宇宙に飛び出していくような計り知れない広がりを感じてしまいます。

書店に並ぶ本を無作為に手に取って読んでもそこには必ず新しい発見があり、これまで知ることのなかった全く別の世界があったことに愕然とし打ちのめされたり、勇気づけられたり、或は新しい恋人に出会ったような高揚感に浸って足取りが軽くなったりと不思議な感覚に捕われたりしています。

私は知識として学ぶことよりも現実には体験できないようなことを書物を通して感性で受け止め、共感し心を揺さぶられるという読み方をしているつもりです。それでも若い時に勉強してこなかったツケが今頃になって頭をもたげ、読書していても知識の足りなさを思い知らされることが多々あります。

やはり勉強は頭の柔らかい若いうちにやっておかなければならないのです。頭も身体も心も柔軟性がある時に受け入れるようにしなければ身につかないことを若者に伝えたいと思っても、自身の若かった時のことを思い出すと年寄りの言うことに素直に耳をかさなかった生意気な青二才の姿が浮かんで来て何も言えなくなってしまいます。
それでも子ども達にだけは機会がある度に学ぶ事の大切さを自らの反省を吐露しながら話してもいます。

2015年8月15日土曜日

2015 劇団通信8月号

毎日何かしら心がときめいたりワクワクするような楽しいこと、或は何かを見て感動するようなことがあれば私たちの脳はいつまでも健全に働くそうです。ある脳学者が言っていましたが常に感動したり楽しいことをしていると脳は新鮮な刺激を受けて衰退する事はありませんが、毎日大した変化もなくマンネリのような生き方をしていると脳がエコ的になって受け入れる容量が少なくなり認知症にもなりやすくなるというのです。

 老化現象というのは子どものような興味津々といった新鮮な感動がなくなるということでもあり、だからこそ常に新鮮な刺激を脳に与えられるような楽しいことや涙が出る程の感動などを求めて積極的に実践していかなければなりません。周りをみればそのような刺激が沢山あるのにも関わらずついつい横着になって出かけるのをためらってしまいがちですが、確かに若い時のような体力もなくなっているのでわざわざ電車に乗って劇場や映画館、美術館まで足を運ぶよりも家で横になってテレビでも見ていた方が楽だと思ってしまいます。楽だと思う気持ちに打ち勝つには余程の強い意志を持って行動に移さなければなりませんが健康でいる間は何もなくても病気になって初めて気がつくという愚かしさに打ちのめされるのです。

 近年ネット社会になってあらゆることが便利になり、それに伴って人々の生活も益々エコ状態になってきています。大型画面のテレビが普及したために舞台や映画も家の中で観られるようになり、時間とお金をかけて外に出かける必要もなくなってきました。だからこそ私たちの舞台もわざわざ出かけてでも観る価値のある作品を提供していかなければならないと強く思います。







2015年7月1日水曜日

2015 劇団通信7月号

作家の瀬戸内寂聴さんが先日NHKのテレビで病から回復した元気な姿で対談なさっていました。93歳になってこれから又本格的に執筆活動に入るということで、頭の中味は全く衰えていないから体力の続く限り書いていきたい、しかも色っぽいものが書きたいと老いて尚恋することの素晴らしさを当然の如く語っていらっしゃいました。その時の子どものような愛くるしい表情が私の目に焼き付いて離れません。

寂聴さんは対談の中で「これまで多くの人々に人生の苦難を乗り切るような説法をしてきたけれど、それは心から分かっていたのではなく言葉で言っていただけ、自分が病に倒れて初めて本当の痛みを知ることになった。痛みや苦悩を実際に体験しなければ真の理解者にはなれないし、人はそのような体験をしながら強くなり向上していくものです」というような内容のお話をなさっていました。

確かに失敗したり、悲しみに遭遇したり、苦しみに耐えて我慢することや挫折を味わうことで人間は強くなり向上することに繋がっていくと思います。

又、寂聴さんは悩み事の相談を受ける中で「他人に言われたことが気になって仕方がない」という相談が一番多いそうです。それについては「そんなこと一切気にしないでいい。第一その人が貴女のために税金でも支払ってくれますか」と一刀両断、面白い言い方だと感心してしまいました。
そんな無責任な人に捕われても仕方ありません。
どの世界でも、どんな集団でも、グループでも必ず気に要らないような発言をする人はいます。
寂聴さんのおっしゃるように一切気にしない心の余裕を持ちたいものです。













2015年6月20日土曜日

2015 劇団通信6月号

私の住んでいる稲城市向陽台のすぐ近くに総合運動場がありますが、その裏側に森林浴が出来そうな木々に包まれたウォーキングコースがあります。私の散歩コースになっていますが30分ほど歩いた所に167段の石段があります。その石段の下で軽くストレッチをやって上を見上げ、よし、一気にいこうと気を引き締めて一段一段踏みしめるように登っていきます。


たかが167段じゃないかと思われても私にとっては必死です。毎回登る度に速度や呼吸の乱れに差があって自分の体力が維持できているかどうかのバロメーターにもなっています。毎日やっていればある程度抵抗も少なく登り詰めることができますが、しばらく日にちが空いたりすると息切れがひどくなりぜいぜい言いながらやっとの思いで辿り着くことになります。


何年か前までは難なく登っていたのにと取り戻す事の出来ない体力の衰えを感じながらも挑戦する意欲は失わないように頑張っています。しかし体力の衰えは身体の固さによっても思い知らされ、柔軟やストレッチは日課のように毎日やっていれば歳をとっても固くなる事はないと分かっていても、なかなか続けられないもどかしさが募ります。これが年老いていくことなのか、いや、出来ることをやらないで唯さぼって横着しているだけではないか、自問を繰り返しながら少しでも向上しようと細い身体に鞭打っています。


しかし私のことよりも最近子ども達でもひどく身体の固い子がいたのを見て驚きました。私よりも固い !  ミュージカルの劇団でしかも何年も在籍していて、身体が柔らかくないと踊れないことくらい当然分かっている筈です。我が身のことはさておきとても情けない気持ちになりました。







2015 劇団通信5月号

最近ある「子どもミュージカル」の公演で誰にもはっきり分かるような音響のミスがありました。生の舞台では万全を尽くしていても予期しないアクシデントに見舞われることが多々ありますが、あってはならないミスであっても起きてしまった事に対してはどうする事もできません。大きな興行などではミスをすれば賠償責任問題にまで発展しかねませんが、責任をとったからといって元の状態に戻す事はできません。ライブには何が起きるか分からないスリルと不安が伴いますが、それが又人々を引き付ける大きな魅力でもあります。


例えばスタッフが細心の注意を払っていても舞台裏で誰かが何かにつまずいて大きな音を出してしまったり、役者の衣裳が小道具に引っかかって、その落ちた音が客席に響いたり小さなミスは限りなくあります。又役者が奈落に転落したり、大道具が上演中に倒れてケガをしたり、ミスというよりは重大な事故に繋がっている例もたくさんあります。勿論あってはならないことではありますが、人の手によって動いている以上ミスを完全になくすのは不可能に近いことです。


だからこそリハーサルをしっかりやって万全を期さなければなりませんが、「子どもミュージカル」の場合実際に舞台で稽古出来るのはゲネプロの1回だけです。出演者や劇団のスタッフは稽古で全体の流れをしっかり把握できていますが、外部のスタッフさんはせいぜい1〜2回の稽古に付き合ってもらうだけです。出来るなら毎回の稽古に来て欲しいと思いますが、経済の問題があるだけになかなか難しいところです。
ミスを容認する訳ではありませんが、当事者にはその都度寛容に対応しています。





2015年4月13日月曜日

2015 劇団通信4月号

劇団の上演作品の一つ「魔女バンバ」の稽古をする度に思うことは「笑う」ということが如何に大切であるかということです。主題歌の歌詞には
「さあ、一緒に笑いましょう。笑えば心が明るくなる。笑えば希望が生まれてくる」とあります。


笑うということはマイナス面を消し去る力を与えてくれます。しかし憂鬱な時とか思い悩んでいる時にはなかなか笑えません。でも、そのような時にこそ敢えて笑ってみましょう。演技だと思って声を出して笑顔を作って笑ってみましょう。その内にだんだん楽しくなって心も弾んできます。


小さな悩みごとなら簡単に飛んで行ってしまいます。大きな悩みでも「くよくよしたって仕方がない」という気持ちになり心に余裕が出てきて、これまで考えられなかった新たな解決法が見つかるかもしれません。思い悩んで憂鬱になって悶々としたって解決の糸口は見つかりません。心を切り替えて一切を解き放った時に思いもよらぬ新たな展開が広がってくるものです。


心を切り替える一番の効果は「笑う」ということです。「魔女バンバ」は光と闇の対決を描いていて、闇を支配しているバンバに明るさの象徴ポポロが立ち向かいます。しかし世の中は人々の心が荒み闇と思われる出来事が蔓延しているためにポポロの力も衰えて風前の灯火になっています。勢いを増したバンバの力によって闇がどんどん社会を覆い尽くしていきます。闇というのは光の欠乏状態に過ぎません。一本の小さなろうそくでもあればその周辺の闇は消えてしまうのです。


ポポロは子ども達の明るさに助けられ、本来の力を取り戻していきます。子ども達と一緒に笑うことによって魔女のバンバは自然に消滅していくのです。









2015年4月7日火曜日

2015 劇団通信3月号

児童劇団「大きな夢」を立ち上げたのは今から21年半前です。
私が51歳の時ですから今年の誕生日でもう73歳になってしまいます。
最初は稲城で10人ほどでスタートしたのが少しずつ各地に広がり今では500人の規模になっています。一人一人の子ども達に会って親しくレッスンしていきたい気持ちがあっても23ヶ所を定期的に満遍なく回る事は不可能に近いことです。公演間際になれば無理してでも行けるようにスケジュールも組んでもらっていますが、それでも全体の通し稽古やゲネプロを見るのが精一杯で直接子ども達と触れ合うといった時間が取れないのが現状です。


しかし以前はそれでも何とかやりくりして出来ていたものが、最近は自分の体力を慮ってか疲れが溜まらないようにいつの間にかセーブしている事に気がつきました。本来子ども達と触れ合いたくて始めた児童劇団なのに自分で予防線を張ってしまっていたのです。年齢を重ねるにつれて横着をしようという思いが強くなっていたのかもしれません。
危ないあぶない !  生命が燃え尽きるまで「大きな夢」の子ども達と触れ合っていたい、子ども達にとっては迷惑かもしれないがそれが私の生きる道だと豪語していたではないか ! 

今年に入って私は出来る限り出かけて行こうと一念発起、実行に移しました。毎日どこかの「子どもミュージカル」に顔を出していますが、しばらく見なかった子ども達の成長の早さに驚き目を細めるばかり。
こうして日々新鮮な気持ちで子ども達に接する喜びは私に一層の活力をもたらしてくれる最大の健康法にもなっています。



2015年2月26日木曜日

2015 劇団通信1月号

「何事にも行き届く」ということはとてもむずかしいことですが人間社会にあって一番肝心なことです。企業でも組織でも商売でも基本的な姿勢であり、これを怠ると衰退の一途を辿ることになります。人に、事に、物に、全てに行き届く姿勢をもって生きていけるか、簡単に出来ることではありませんが、そのための努力、修行を積まなければ到達出来ない深いものなのです。


若い人達を見ていると何故もっと相手の立場に立って物が言えないのか、虚栄心なのか自信過剰なのか、謙虚さが足りないなどと年寄りは思ったりします。若さというのは未熟です。それだけに勢いもあり失敗もありますが、それを肥料にして成熟した実をつけるかどうかは、本人の生き方、努力にかかっています。行き届いているつもりでも抜け落ちる事は誰にもあります。


抜け落ちた所をそうでないように取り繕ったり、抜け落ちたところを正当化することなど夫々の人柄や性格にもよりますが、自分を良く見せたいという思いが強く出過ぎると顰蹙を買い信用を失ってしまいます。良く見せたいと努力するより謙虚に自分の行いを反省し素直な心で生きていく事の方が尊いのです。しかし謙虚になったつもりでも卑屈になり過ぎて「すみません」を連発しても決していい結果は生まれません。要は常に向上心を持って自らに問いかけ、あらゆることに気を配り行き届く訓練を繰り返ししていくことが大切です。
終了する事もない人生の修行のひとつひとつが積み重なって人格を形成していく事を忘れてはなりません。